日本人の大学観について①

これから何回かにわたって、僕が考えている日本人の大学観についての話をしたいと思います。なんでこの話をしようと思うかというと、現在の文系軽視の傾向が、大学観から由来しているのではないか、と思うからです。

さて、大学の話をする前に、まず試験の話をしなければなりません。なぜなら、大学観を形成するひとつの要素が偏差値であり、それを図るための道具が試験だからです。

まず、試験、特に筆記試験の歴史を見てみましょう。筆記試験は、中国の官僚登用制度「科挙」がその起源です。中国歴代王朝は、どうすれば優秀な人材を官吏に登用できるのかを考えました。地方有力者が推薦する郷挙里選、中正官に見極めさせる九品官人法などの制度が考えさせられましたが、あまりうまくはいきませんでした。そこで、より客観的に、その人の能力を見極める制度として考え出されたのが、科挙でした。

中国では、科挙によって、宋代には、貴族や平民にかかわりなく、官吏に登用される平等な社会ができあがりました(とはいっても、勉強するテキストを購入し、家庭教師を雇い、学校に通ったりもしなければならないかったので、結局受験者の多くは経済的余裕のある階層の人々の子弟でしたが)。

ヨーロッパでこの科挙制度をまねた筆記試験が導入されるのは、フランス革命後でした。それまでの身分社会を否定し、平等な社会を形成しようと考えた彼らは、試験によって身分に関係のなく優秀な人間を登用しようとします。そして、大学の試験にも、これが導入されます。

さて、これまで筆記試験の歴史について話してきたわけですが、では、その筆記試験とはそもそも何を測っているものなのでしょうか。当然、「大学受験での勉強は、大学に入ってから必要な知識・理解等を測っている」という人がいると思いますが、一概にそうとはいえません。私の実体験ですと、教養科目で物理学の授業を受けた時、教授から「入試試験で学んだことは全部忘れてください」「入試問題での考え方は、実際の研究において邪魔になります」といわれていたことがあります。また、例えば物理学を研究したい人に、なぜ古文・漢文の読解能力が問われるのか、というのも疑問です。明らかに、大学に入って必要な知識以上のものが問われていると思います。

私が思うに、ものすごく抽象化していえば、試験とは、一定の時間で問題をどれだけたくさん、かつ正確に解けるのかを測るものです。つまり、どれだけ効率的に問題を処理できるか、そして、そのためにどれだけ効率的に勉強できるのか、が試験では測られているのです。

さて、筆記試験は科挙から、身分にかかわりなく、人を客観的・平等に採用するための制度と考えられていたわけですが、それは本当なのでしょうか。はっきりいうと嘘です。確かに形式としては、そのような形になっているかもしれません。しかし、科挙受験者が、勉強できる環境が整っている富裕層であったのと同じように、現代の試験も、試験の出来不出来は、その人の生活する環境に左右されます。勉強ができる人は、塾に通えたり、家庭教師を雇えたり、または参考書などをすぐに買ってもらえる環境にある人、また、親兄弟が教育熱心な人であるといえます。

そして、そういう環境で育ち、将来無事公務員、銀行員、有名企業に就職できることができた人の子供は、当然その人と同じ環境で育つわけです。こうして、勉強の出来不出来は再生産されていきます。

さて、以上が僕の試験に対する考え方です。僕自身あまり勉強ができるほうではない(そして、すごい勉強嫌い)ので、若干コンプレックスからくる考え方ではあると思います。次回は、この試験の話をもとに、ようやく大学についての話に入っていこうと思います。

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偉そうな人々

私がネットサーフィンをしていてよく見かけるのが、上から目線で偉そうに話をする人々です。掲示板、ニュースサイトのコメント欄、ツイッターなど多くの場所で見かけます。

話している内容は様々です。例えば、安保法制の関連のニュースでは、安保に反対する人を口汚く罵るコメントがたくさんつきます。秘密保護法のときや、日中、日韓関係のニュースのときも同じような感じです。

他に、私が見て印象的だった例を2つあげます。1つは、七夕の前に見たツイートです。「七夕はもともと自分の芸事などの上達を誓うものであって、お願い事をする日ではない。なので、それを知らずにお願い事をしているやつはバカである」というようなことをいっていました。

もう1つは、秘密保護法が問題になったときに見たツイートです。その人は学者(おそらく、政治学か法学か歴史学です)のようで、学術的見地から話をして、いわゆるネット右翼のような人とも対立していました。そんな彼がいっていたのは、「君はオルテガを読んだことがあるのか?」「オルテガを読んでいないようなやつが政治の話をするな」というものでした。

さて、こういう人たちは、どうして、こんな偉そうな態度をとってしまうのでしょうか。彼ら全員に共通しているのが、自分の考えをしっかり持ち、その絶対性を確信していること、そして逆に、その確信ゆえに、自分の持っている考え方以外を受け入れないことです。

安保法制には賛成することが正しく、それ以外は間違っている。七夕について知っていることは日本人として当たり前であり、知らない人間はおかしい。政治を語る以上オルテガは知っていて当たり前であり、それを知らずに政治の話をしているのはおかしい。

こういう状態になるのは、何も特別な人ではありません。誰でもそうなる可能性があるのです。人よりもちょっと自信のある人は、そういう状態になってしまいます。学者、政治家、ジャーナリスト、ニュースコメンテーター、アイドル、俳優から、なんでもない一般の人々まで、どんな人でもです。かくいう私も、しばしばそういう状態に陥ってしまいます。

私は、これが人間同士が分かり合えない根本的な原因だと思っています。お互いがお互いに自分の「真理」を押し付け合い、押し付けられた側はそれを拒否する。それが、人間がこれまで繰り返してきたことだと思っています。

どうすればそういう状態にならないようにできるのか。それは、絶え間ない自省によって成し遂げられるでしょう。では、そういう状態になっている他人をどうすればいいのか。これは非常に難しいです。相手に気づかせてあげるしかないのですが、そう簡単にできることではないです。ただ、あきらめずに、考え続けることは重要だと思います。

歴史教育で「大事」なもの

小中高における歴史教育がどうあるべきか、というのは、もう延々と議論されていることです。人物名や事件名などを暗記するだけの教育はよくないだとか、考えさせる歴史にするべきだとか、教科書がつまらないとか、いろいろといわれています。

歴史というものは、1年たつごとにそれだけ出来事が増えるわけですから、人類が存在している限り無限に増えていきます。ですから、教科書の記述もそれだけ増えていきます。なので、どこかで記述を減らさないといけないわけですが、それができないのが現状です。

なぜできないかというと、教科書を制作する段階で、様々な歴史研究者が「自分の専門分野こそ最も大事」というからです。歴史観というのは、その歴史研究者によって違いますから、研究者の数だけ「大事」なものがあるわけです。そうやってみんなの「大事」を寄せ集めて作ったのが、現在の長大な教科書、というわけです。

しかし、上述の通り、それだと歴史を教育することは不可能に近いです。実際、現代史なんてほとんど授業で取り扱われていませんし、逆に「なんでこんなもの覚えなくちゃいけないの?」というすごい細かい知識を暗記させられたりします。なので、なにか基準を設けて、教科書の記述を再検討しないといけないと思います。しかし、その基準について研究者が話し合うと、おそらく自分の「大事」を押し出してきて、終わらない論争になるかと思います。そこで、私は少し視点を変えた「大事」を提案したいと思います。

まず、歴史教育を受ける側、すなわち日本の高校生のことを考えてみましょう。高校生の内、大学へ進学する人が、だいたい50パーセント。そのうち、歴史系の学部・学科へ進学する人はどのくらいいるでしょうか?直感的に考えても、あまり多くはないと思われます。総務省の統計では、平成25年度の大学進学者2,868,860人のうち、人文科学系への進学者は377,182人です(http://www.stat.go.jp/data/nihon/22.htm)。人文科学には、哲学、文学、言語学、文化人類学などの学問も含まれているでしょうから、単純に考えても、1万人いないわけです。ここからわかることは、高校生のほとんどは、将来歴史学とはほとんど無縁の生活を送ることになる、ということです。

このことから、高校までの歴史教育においては、歴史学者が思う「大事」を教えるのではなく、歴史学と無縁の生活を送ることになる高校生たちの将来にとって、「大事」なものを教えるべきである、ということがいえるのではないでしょうか。では、彼らにとって「大事」なものとはなんでしょうか。これはまた別の機会にしたいと思います。

文系は役に立たない?

「文系の学問は役に立たない」という意見をよく見かけます。特に、哲学、歴史学、文学などが役に立たないといわれています。昨今の大学改革においても、国立大学から文系の学部を廃止・再編する方向性に向かっており、ここにも、「文系の学問は役に立たない」という考えが見受けられます。

そもそも、「役に立つ」とはどういうことなのでしょうか。そういう人たちと話してみたことはないので、本当のところはよくわかりませんが、「役に立つ=経済的利益がある」という意味である場合が多い気がします。

確かに、哲学、歴史学、文学などの学問は、短期的に経済的利益を生み出すことができません。しかし、経済的利益以外の意味で「役に立つ」ことはできると思います。僕は哲学、文学については詳しくないので歴史学の話だけしたいと思います。

第1に、いい加減な歴史か科学的な歴史かを峻別するのに役に立ちます。歴史は、教訓として引き合いに出されたり、主張の自己正当化のために使われたりします。しかし、そういう場合、そこで描かれている歴史は、粗野で、歴史学の通説とは異なることが書かれていたりすることがあります。歴史学を学ぶことで、相手の語る歴史が、厳密に実証されたものなのか、それともいい加減な考証しかされていないものなのかをしっかりわけることができます。

第2に、現代社会を理解するのに役に立ちます。現代社会を構成しているあらゆるものには、時間の長短はあるにせよ、歴史があります。歴史学は、それがどのような目的で、どのような過程で、誰によって、構築されたのかを明らかにすることができます。自分が住んでいる社会の歴史を知ることで、社会を通して自分自身を知ることができます。

第3に、現代社会を批判するのに役に立ちます。歴史学は、空間・時間のことなるところに存在した社会、文化、人間などを知ることができます。そこにはおのずと、現代社会とは異なる価値観、制度が存在します、そうしたものを知ることで、現代社会における価値観や制度を相対化してみることができるようになり、現代社会の問題点を指摘できるようになると思います。

ここであげた「役に立つ」とは、「経済的利益がある」というのとはある意味真逆だと思います。しかし、そういう風に「役に立つ」ものがないと、社会はうまくまわっていかないのではないでしょうか。

大学制度について思うこと

「日本の大学生は勉強しない」という話は、昔からよく聞きます。実際、僕の身の回りにも勉強してなさそうな人たちは少なくないです。僕も人のこと言えないと思いますが。

「勉強しない」というのは、学生にとって、大学での勉強がそれだけ魅力がないということなのでしょう。大学での勉強は(ほとんどの場合)就職に結びつかない、そもそもなんとなく選んだ学部だからあんまり興味がない、授業が面白くない、あるいは、内容が高度でついていけない、といったことが考えられます。

「勉強しない」というのは、教授の側にも負担をかけます。やる気のない学生相手に、誰も聞いていない講義をしなければならず、提出されるレポートは退屈なものばかり、ゼミでは何度も同じことをいって修正しなければならない、しかも指摘してもやる気がないので直さない、結果、自分の研究する時間がなくなってしまう。

学生と教授、両者にとって、大学での勉強が魅力的でなく、負担となるのならば、そもそも高校生の大半が大学に通うというシステム自体、かなり問題のあるものなのではないでしょうか。アメリカ式の詰込み型でもなく、ドイツ式の自由な研究体制でもない、日本の大学は中途半端な立ち位置にあるといえます。僕としては、就職する人向けの専門学校を設立して、現在大学に来ている学生の多くをそちらで受け入れ、大学はもっと研究機関としての色を強めるのがいいのではないかと思います。少なくとも、負担は軽くなるのではないかと考えています。